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ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅・身長・本名は?ギャグ画像や映画も!

ハナ肇さんは伝説のコミックバンド「クレイジーキャッツ」のリーダーでドラムを担当していました。芸能界のドンと呼ばれたハナ肇さんは、どんな自宅に住み、死因は何だったのか?今回は死因、ドラム芸、自宅など、ハナ肇さんの生涯を見ていきましょう!

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんのプロフィール

ハナ肇さんは、1930年2月9日生まれで東京都豊島区出身です。本名は「野々山定夫(ののやまさだお)さん」と言います。コミックバンド「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のドラムを担当し、リーダーを務めていました。ミュージシャンだけでなく、コメディアンや俳優としても活躍していました。1993年9月10日に63歳でこの世を去りました。
所属事務所は渡辺プロダクションに所属しており、1955年から1993年まで芸能活動を行っていました。妻は当時日活の人気女優だった「島村葉子さん」。身長については特に公表されていないものの、画像で見る限り小柄ではないことがわかります。弟子には、「ザ・ドリフターズ」や「なべおさみさん」、「島崎俊郎さん」などがいます。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】クレイジーキャッツとは?

ハナ肇さんは1995年自身がリーダーでもあり、クレイジーキャッツの前身バンドともなる「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を結成しました。その後、メンバーに植木等さんや谷啓さんが加わり、1957年に「ハナ肇とクレイジーキャッツ」となりました。ジャケット写真の画像を見ただけでも楽しそうな様子がわかりますね。
1961年8月20日に発売された「スーダラ節」は50万枚以上の大ヒットとなり、第4回レコード大賞の企画大賞を受賞しました。1986年にクレイジー30周年記念曲がリリースされるまで多くのレコードを発売しました。ハナ肇とクレイジーキャッツは、多くのバラエティー番組にも出演してコントを演じていたことから、コントグループとして見られてしまいましたが、ほかのコミックバンドとは違う「音楽の質の高さ」を認められていました。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんの死因とは?

晩年には「ハナ肇が渡辺プロの社長になるのでは?」というウワサもありましたが、結局叶うことはありませんでした。ハナ肇さんは1985年に、「ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー」というバンドを結成し、亡くなる約1ヶ月前まで活動されていて、1991年4月29日には紫綬褒章を受章しました。
入院した際は弟子たちが交代で看病していましたが、1993年9月10日に肝臓がんで63歳で他界しました。谷啓さんや犬塚毅さんなど、クレイジーキャッツのメンバーに見守られて息を引き取ったそうです。葬儀・告別式の弔辞は、森重久彌さんと植木等さんが読みました。ハナ肇の他界とともにクレイジーキャッツの活動に幕を降ろすことになりました。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんの自宅とは?

ハナ肇さんのご自宅は、世田谷区中町界隈にあったという話でしたが、現在はもう違う家になっているそうです。ハナ肇さんほどの大物芸能人が、どんな豪邸に住んでいたのかはとても気になりますが、これといって有力な情報は得られませんでした。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんの経歴

クレイジーキャッツのメンバーとしてミュージシャンとして活躍しながら、コメディアンとしても多くのバラエティー番組に出演し、たくさんのギャグでお茶の間に笑いを届けました。ハナ肇さんの代表番組には、日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」や、同じく日本テレビ系「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」などがあります。
フジテレビ系のお正月番組「新春かくし芸大会」では、ハナ肇さんの「銅像コント」がとても有名で人気を集めていました。志村けんさん以外のドリフターズの名づけ親としても有名で、渡辺プロダクションのグループ全体でも所属タレントたちのリーダー的な存在だったようです。この頃のハナ肇さんは、ミュージシャンにコメディアン、映画俳優に大忙しでした。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんに子供はいるの?

ネットで「ハナ肇」と検索してみると、関連ワードに「子供」と出てきます。ハナ肇さんの子供は「一体どんな方なのだろう」と気になって調べてみましたが、ハナ肇さんには子供の情報がなく、おそらく子供はいないのではないかと思います。子供はいなくても妻葉子さんとはとても仲が良く、夫婦関係も円満だったようです。
ハナ肇さんの夫婦円満は芸能界でも有名で、タレントのモト冬樹さんは自身のブログでハナ肇さん夫婦のことを「憧れの夫婦」と綴っています。例え子供がいなくても、仲睦ましい夫婦生活が送れることが子供の存在よりも大きな幸せだったのかもしれませんね。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんの交友関係

「バンド」や「コンビ」、「コントグループ」と聞くと多くが仕事上だけの関係で、プライベートではあまり交流を持たないのが現代の主流です。しかし、ハナ肇さんが活躍されていたころの芸能界はそうではなかったようです。ハナ肇さんはクレイジーキャッツメンバーとも、亡くなる直前まで家族同然のお付き合いをしていたのだそうです。
クレイジーキャッツのメンバー以外にも、自身の弟子たちや映画やバラエティー番組での共演者、ラジオ番組の共演者とも深く交流されていまようです。自身が所属していた渡辺プロダクション内での信頼も厚く、リーダーとしてたくさんの人をまとめる才能を発揮していました。ハナ肇さんの葬儀の参列者を見れば、生前の交友関係の広さが良くわかります。

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんのギャグ動画

ハナ肇さんのギャグで一番有名なのが「銅像コント」です。銅像コントの画像は現在もネット上に多く存在しています。1969年から放送されていた「巨泉×前武のゲバゲバ90分!」では、ハナ肇さんの「あっと驚くタメゴロー!」というギャグが大流行しました。多くの若者がこのギャグを真似して、飲み会の席でも定番のギャグになっていたそうです。
この頃のコント画像を見ると、今の話が長いコントというよりも「一発ギャグ」が主流のコントが多かったように感じます。ハナ肇さんのコント画像は今もネット上にたくさん存在していますので、笑いの原点を知りたいという人は、是非一度画像検索してみてください!画像だけ見てもコントがおもしろいことがわかります!

【ハナ肇の死因は?ドラム芸は?自宅は?身長は?本名は?】ハナ肇さんの出演映画

ハナ肇さんは1960年「足にさわった女」で映画デビューを果たします。1970年には自身のギャグ「アッと驚く為五郎」が映画になり、その後為五郎シリーズとして1972年までに5本の映画となりました。その他、東宝クレイジー映画にも出演し、クレイジーシリーズもとても人気を集めました。
ハナ肇さんが携わった映画の本数は100本以上もあり、コメディアンやミュージシャンとしてだけでなく、俳優としても活躍されていたことがわかります。現在の人気俳優さんでも、これほど多くの作品に携わっている俳優さんや女優さんは少ないのではないかと思います。

まとめ

今回は昭和の大スター「ハナ肇さん」についてまとめてみました!音楽・笑い・芝居と多くの才能があったハナ肇さんは今後も伝説となって語り継がれるに違いありません!現代の芸能界ではタブーのようなコントも昔は普通に放送されていたのだなぁと実感しました。興味があったら是非昭和のコントをご覧になってみてください!