【石牟礼道子の死因は?】プロフィール
石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんは、熊本県・天草に生まれ、生後まもなく対岸の熊本県水俣市に移住しました。
石牟礼道子さんは、短歌の才能を認められて、1958に、詩人谷川雁(たにがわ・がん)さん達と一緒に同人誌「サークル村」に参加しました。
南九州の庶民の生活を主題にした作品を「サークル村」などに発表しました。
1968年には、「水俣病対策市民会議」の設立に参加し、チッソに対する患者達の闘争を支援しました。
【石牟礼道子の死因は?】石牟礼道子と水俣病
石牟礼道子さんが、1969年に書いた「苦海浄土 わが水俣病」は、水俣病患者の心の声が書かれています。
「水俣病」の真実の姿を世の中の人にわかって貰うために書かれた「苦海浄土 わが水俣病」の中には、言葉すら発することができなくなった患者たちの「声なき声」が名言としておさめられています。
石牟礼道子さんの「苦海浄土 わが水俣病」は高い評価を受けて、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれました。
しかし、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と受賞を辞退しました。
「苦海浄土 天の魚」や「椿の海の記」、「流民の都」などの数多くの作品で、水俣病患者の精神的な支えになりました。
平和のための名言
水俣病
水俣病は、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、新潟水俣病とならぶ四大公害被害のうちのひとつです。
1954年ごろから熊本県水俣を中心とする八代(やつしろ)海沿岸の漁民が、新日本窒素水俣工場の排水に含まれていた有機水銀によって「水俣病」の症状が出始めました。
手足がしびれて言語等に障害をきたして、衰弱し死に至るか、後遺症を残すのが水俣病です。
【石牟礼道子の死因は?】「不知火」
2002年には、人間の魂と自然の救済と復活を祈って執筆した新作能「不知火(しらぬい)」が東京で上演されました。
2003年からは熊本市や水俣市でも上演されました。
【石牟礼道子の死因は?】皇后・美智子さまとの関係
石牟礼道子さんは、2013年10月に天皇皇后両陛下が熊本を訪問された時に水俣病の胎児性患者と会うきっかけをつくりました。胎児性患者というのは、母親のお腹の中にいる時に、すでにメチル水銀に侵されてしまい、生まれて来た時にはすでに障害を負った人々のことです。
天皇皇后両陛下と話したのは「語り部の会」の代表・緒方正実さん
この時に、天皇皇后両陛下と話したのは「語り部の会」の代表・緒方正実さんです。
緒方正実さんは認定患者になるために行政訴訟を起こして、長年闘っていました。
そして、10年かかって当時の熊本県知事・潮谷義子さんから手紙が届き認定されました。
鶴見和子さんをしのぶ「山百合忌」での出会い
2006年に亡くなった評論家の鶴見和子さんをしのぶ「山百合忌」で、石牟礼道子さんは皇后・美智子さまと対面しました。
石牟礼道子さんは「人を好きだと思っても好きとも言えん人たちでございます。患者さんたちにぜひ会ってください」と皇后に手紙を出していました。
パーキソン病の影響で手が震えてしまう石牟礼道子さんのために、皇后・美智子さまは自ら「これ、おいしいわよ」と料理を取り分けてくれたそうです。
その時に、帰路につかれようとする皇后・美智子さまから「今度、水俣に行きます」と告げられたということでした。
水俣訪問、天皇皇后の苦悩
水俣訪問までには、天皇皇后はいろいろと苦悩されたということでした。
理由は2つありました。
・水俣病を蔓延させた企業に雅子妃の祖父が関係していました。
・皇后さまの妹さんは第二水俣病を発生させた昭和電工に嫁がれていました。
皇后・美智子さまご自身、水俣訪問の前年に「皇太子の問題がございますから(訪問は)難しいでしょう」と話されたという話も伝わってきていました。
【石牟礼道子の死因は?】受賞作品
石牟礼道子さんは、いろいろな作品で、さまざまな賞を受賞しています。
1973年には、水俣病関係の著作で「アジアのノーベル賞」と言われるフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」を受賞しました。
1993年には不知火(しらぬい)の海辺で生活をしている3世代の女たちを描いた「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞を受賞しました。
2001年には、環境破壊による生命系の危機を訴えた創作活動に対する朝日賞を受賞しました。
2003年には、詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞を受けました。
2011年には作家・池澤夏樹さんが責任編集した「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一人収録されました。
【石牟礼道子の死因は?】石牟礼道子の思い
石牟礼道子さんが書くことによって伝えたかった思いというのはなんなのでしょうか。
NHKの「100分de名著」という番組の中で、批評家・若松英輔さんを講師に招いて、新しい視点から石牟礼道子さんの「苦海浄土」を解説していました。
第1回の2016年9月5日放送「小さきものに宿る魂の言葉」
第2回の2016年9月12日放送「近代の闇、彼方の光源」
第3回の2016年9月19日放送「いのちと歴史」
第4回の2016年9月26日放送「終わりなき問い」
石牟礼道子さん名言
【石牟礼道子の死因は?】石牟礼道子と詩
石牟礼道子さんを偲んだ詩集があります。
『燃える水滴 詩集』
詩歌文学館賞受賞の詩人・批評家・若松英輔さんの『燃える水滴 詩集』は、弱き者のささやきを聞き逃さないために石牟礼道子さんや多くのなくなった方へことばを贈る形の詩集です。
かなしみを、ただかなしいとするだけでなく、かなしみを身近に感じながら生きていく為の詩集になっています。
石牟礼道子の俳句
黒田杏子さんが主宰する俳句の雑誌『藍生』が、「渡辺京二と石牟礼道子」という特集を組みました。
【石牟礼道子死去】パーキンソン病
石牟礼道子さんは、2018年2月10日午前3時14分に、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市の介護施設で死去しました。年齢は90歳でした。
葬儀は近親者のみで執り行なわれ、喪主は長男の道生(みちお)さんが務めました。
石牟礼道子の死去報道 まとめ
石牟礼道子さんは、長年パーキンソン病に苦しみ、2018年2月10日午前3時14分に、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市の介護施設で死去しました。
生涯を水俣病の人々に捧げたともいえる人生でした。
石牟礼道子さんのご冥福をお祈りいたします。
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