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ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像はある?入場曲は?

プロレスのザ・シークさんの人柄や性格はどのような人柄や性格だったのでしょうか。プロレスのザ・シークさんの現在の画像はあるのでしょうか。入場曲は、なにを使っているのでしょうか。ザ・シークさんの火炎攻撃などについてもみていきましょう。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】プロフィール

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ザ・シークさんは、1926年6月9日生まれのアメリカ合衆国のプロレスラーでした。ミシガン州ランシング出身のレバノン系アメリカ人です。本名は、「Edward George Farhat」さんです。2003年1月18日に亡くなりました。
アラブ人ギミックの狂乱系ヒールとして一時代を築きました。日本では「アラビアの怪人」という異名を持っています。 NWAデトロイト地区のプロモーターとしても活躍していたザ・シークさんは、「デトロイトの帝王」とも呼ばれました。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】シークの名

プロレスラーの中には、「シーク(首長)」の名前を冠したプロレスラーは数多く存在しているので、ザ・シークの本国のアメリカでは尊敬の意味も込めて、ジ・オリジナル・シーク(The Original Sheik)とも呼ばれています。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】デビュー

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両親はレバノンからの移民でした。ミシガン州ランシングで、11人兄弟の1人として生まれました。学生時代はアメリカンフットボールの選手でした。17歳のときに年齢を偽って陸軍に入隊して、第二次世界大戦に出征しました。その後、プロモーターのバート・ルビーさんにスカウトされて、1950年にプロレスラーとしてデビューしました。
デビュー前には、モンタナ州ビュートの銅山で採鉱夫をしていたのではないかといわれています。
デビューから数年は、「ザ・シーク・オブ・アラビア」のリングネームで中西部や北東部、テキサスなどで戦い、1955年11月18日にはシカゴで、ルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦しました。
この頃のシークさんは、場外徘徊や凶器攻撃をするシークさんではなく、素早いロープワークや強烈なエルボーを駆使するスピードレスラーでした。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】ザ・シーク

リングネームをザ・シークに改名すると、当時全米で放映されていたプロレス番組「レスリング・フロム・マリゴールドガーデン」でレギュラーとして出演し試合を続けました。
1965年2月6日に、ジョニー・バレンタインさんからデトロイト版のNWA USヘビー級王座を奪い取ります。それ以降、1980年5月まで15年あまりに渡って、バレンタインさん、ボボ・ブラジルさん、パンピロ・フィルポさん、ジノ・ヘルナンデスさん、テリー・ファンクさん、マイティ・イゴールさん達の強豪を破って「NWA USヘビー級王座」を通算16回獲得しました。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】人柄

プロレスでは、悪役だったザ・シークさんが私生活では、ジェントルマンだと言われています。
11人兄弟の10番目として生まれたシーク。11人兄弟の末っ子として生まれたのが、「空飛ぶアラビアン・ナイト」サブゥーさんの母です。サブゥーさんの母の話によるとシークさんはどんなことでも守ってくれる優しい兄だったということです。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】性格

ザ・シークさんは、表向きは、アラビアの怪人とした態度に終始しています。しかし、ザ・シークさんの夫人のインタビューや夫人とのプライベートな散歩のシーンからは、仕事第一ながらも家族思いで温かい性格の持ち主であることが分かります。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】入場曲

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ザ・シークさんは、ロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーさんの作品である「はげ山の一夜」を入場曲に使っていました。リングサイドを徘徊している間、不気味なこの曲が恐怖感をあおります。ザ・シークさんのイメージとピッタリあっていました。
他のザ・シークさんの入場曲は、「吹けよ風、呼べよ嵐」でした。不気味なベースが鳴り響くのが印象的なピンク・フロイドの曲で、この曲が「凶悪レスラーの入場曲」という位置づけで、誰のテーマ曲と決まっていなかったために、ザ・シークさんも入場曲として使われていました。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】ブッチャー

ザ・シークさんは、日本のプロレス界では、アブドーラ・ザ・ブッチャーさん、タイガー・ジェット・シンさんと一緒に「外国人三大最凶ヒール」として恐れられている存在です。
1977年12月に、全日本プロレスの「世界オープンタッグ選手権」に、アブドーラ・ザ・ブッチャーさんと「地上最凶悪コンビ」を組んで参加しました。ドリー・ファンク・ジュニアさん&テリー・ファンクさんのザ・ファンクスのチームを相手に大流血戦を繰り広げました。
シリーズ最終戦の12月15日の蔵前国技館でのファンクス戦は、昭和の全日本プロレスを代表する名勝負でした。タッグリーグ戦を日本のマット界に定着させた記念碑的な試合と言われています。
1978年6月22日のジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでは、アブドーラ・ザ・ブッチャーさんと組んでスタン・ハンセン&ミスター・レスリング2号と対戦しています。

ブッチャーさんと仲間割れ

1979年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」では、ブッチャーさんと仲間割れして顔面に火炎攻撃を見舞いました。
1980年5月2日の後楽園ホールで行われたブッチャーさんとの遺恨戦では、実況席の倉持隆夫アナウンサーを襲い流血させました。1980年暮れの世界最強タッグでは「シークのコピー」といわれたグレート・メフィストさんを連れて参戦し、ブッチャー&キラー・トーア・カマタ組との最終戦では、両者をリングアウトに持ち込んで、ブッチャー組の優勝を阻止しました。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】猪木

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1974年11月に、ザ・シークさんは、新日本プロレスに参戦しました。11月12日に、沖縄の奥武山体育館で、アントニオ猪木さんとのランバージャック・デスマッチも行われました。しかし、シリーズ途中に、キラー・ブルックスさん達が、ビッグタイム・レスリングから選手を引き抜き、デトロイトで新団体を興したことで、緊急帰国し、ザ・シークが、新日本プロレスに参戦したのはこのシリーズのみとなっています。
1976年には、アントニオ猪木さんとの異種格闘技戦が決定したモハメド・アリさんのアドバイザーになったと報じられましたが、再来日することはありませんでした。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】火災攻撃

ザ・シークさんの得意技には、火炎攻撃という攻撃があります。
得意な攻撃には、火炎攻撃や凶器攻撃、キャメルクラッチやアラビアン・バックブリーカーなどがあります。
火炎攻撃というのは、口に含んだ燃料を隠し持ったライターで、着火させながら相手に吹きかけて、炎を浴びせるという攻撃です。
凶器攻撃というのは、ボールペンや五寸釘、レバノンナイフなどを凶器として使用した攻撃です。
キャメルクラッチというのは、うつぶせに倒れた相手の背中に馬乗りになり、相手の首を掴んで後方へ自分が反り返るように引き絞る技です。
キャメルクラッチは、相手をラクダに見立てた中東系ヒールの定番技で、1980年代にはアイアン・シークさん、1990年代にはサブゥーさん、2000年代にはモハメド・ハッサンさんなどが継承してきた技です。
キャメルクラッチは、立てた膝で相手の両腕をホールドする場合もあります。しかし、ザ・シークさんは、相手の片腕だけをホールドして、顎部分を捻るようにして絞め上げることもありました。
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アラビアン・バックブリーカーというのは、うつぶせに倒した相手の足を背後から掴んで、変形波乗り固めのことです。キャリアがあまりない時期に使用していました。

【ザ・シーク(プロレス)の人柄や性格は?現在の画像や火炎攻撃・猪木との関係は?】ご冥福を

1965年2月6日に、ジョニー・バレンタインさんから「デトロイト版のNWA USヘビー級王座」を奪い、1980年5月まで「NWA USヘビー級王座」を通算16回獲得しました。
プロレスでは、悪役だったザ・シークさんは、私生活では、優しい兄だったということです。
ザ・シークさんは、仕事第一ながらも家族思いで温かい性格の持ち主であることが分かります。
ザ・シークさんは、ロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーさんの作品である「はげ山の一夜」を入場曲に使っていました。入場曲には、「吹けよ風、呼べよ嵐」も使用していました。
ザ・シークさんのご冥福をお祈りします。