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Categoryお笑い芸人

トニー谷の晩年は?息子は?タモリ?歌詞・ギャグ・映画・性格も!

「ざんす」など独特なしゃべりで絶大な人気を誇った芸人・トニー谷さんの晩年は?息子が誘拐された?タモリさんとの関係は?今回は戦後の人気芸人・トニー谷さんの晩年、息子誘拐事件の真相、タモリさんとの関係などについて調べてみました。

【トニー谷の晩年とギャグ!息子・歌詞・映画・性格・タモリとの関係】トニー谷のプロフィール

【生年月日】1917年10月14日 【出身地】東京都 
【主な作品】軽演劇「モルガンお雪」
映画「プーさん」「家庭の事情 馬ッ鹿じゃなかろうかの巻」「坊ちゃん」「てなもんや三度笠」
楽曲「さいざんす・マンボ」「チャンバラ・マンボ」「あんたのお名前何ァんてェの」

【トニー谷の晩年とギャグ!息子・歌詞・映画・性格・タモリとの関係】壮絶な幼少期

トニー谷さんの家庭事情はとても複雑だったそうです。実の父親は谷さん生まれる前に死亡し、伯父が戸籍上の父親となったそうです。電気器具商だった父に虐待をされて育つなど暗い幼少期を過ごしています。
小学生のころから成績優秀でしたが、家業を優先するべきという父の命令で中学を中退し、電気学校に通わされました。1934年に実の母親が病死しため、実の父も母も失ってしまいます。その後、伯父が再婚すると、虐待がさらにひどくなったそうです。
虐待がひどくなったため谷さんは家をでで、1935年に日本橋小舟町の薬やに就職しました。1938年に召集令状が出たため入隊し、1940年に除隊し第一ホテル東京に就職し、演芸会のしんこうやくをつとめて人気となります。そして、1942年に妻と結婚しますが、1か月後に再び出征しています。妻は東京大空襲で行方不明となっています。
トニー谷さんは1949年に芸人デビューし、「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」などのギャグや独特の喋りで人気となりました。芸人になってからは過去のすべてを封印し、有名になったのちにかつての友人に声をかけらてても「人違いでしょう」と答えたそうです。また、継父が自宅に訪ねてきた際も冷然と拒絶したそうです。

【トニー谷の晩年とギャグ!息子・歌詞・映画・性格・タモリとの関係】息子誘拐事件

1955年にトニー谷さんの長男が誘拐されました。当時人気絶頂だった芸人の子供が誘拐されたとしてとても話題となりました。
犯人は逮捕され長男は無事に救出されたのですが、犯人の動機が「トニー谷人を小ばかにした芸風に腹が立った」と語り、被害者であったにもかかわらずマスコミにより、隠していた出自などを暴露されてしまいます。この事件を機に谷さんの人気は急落し、仕事が激減してしましました。

【トニー谷の晩年とギャグ!息子・歌詞・映画・性格・タモリとの関係】晩年

1982年に「今夜は最高!」に出演し、タモリさんと意気投合します。初期のタモリさんは「トニー谷の系譜を継ぐ芸人」といわれていました。同年、テレビ大阪の「ご同業対抗歌合戦」でオール巨人さんと司会をつとめ、番組開始から終了まで勤め上げました。
1986年には永六輔さんの手をかりて「六輔七転八倒九百十時」に出演しています。また、みのもんたさんが司会をつとめる番組「爆笑おもしろ寄席」にも出演しました。これがトニー谷さんの最後のテレビ出演となりました。
1987年7月16日に肝臓がんのために都内の病院で亡くなっています。長男誘拐事件以来、マスコミ嫌いを突き通していたため、「マスコミのさらしものにはなりたくない」という谷さんの遺志を組み、訃報は身内や友人だけに伝えられ、葬儀も密葬で済ませたそうです。

【トニー谷の晩年とギャグ!息子・歌詞・映画・性格・タモリとの関係】まとめ

今回は戦後に絶大な人気を誇った芸人・トニー谷さんについて調べてみました。育ての父親から虐待を受け暗い幼少期を過ごし、ブレイク後には自身の息子が誘拐されるなど壮絶な人生を歩んいたのですね!トニー谷さんの生前の動画や曲などを、ぜひチェックしてみてください。