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結核で死去した芸能人・有名人20選まとめ【2019年最新版】

結核は主に肺に感染し、その後様々な臓器に感染をする病気です。かつては不治の病とも言われていた恐れられている病気ですが、現在では治療法も確立されています。そのため結核という言葉を聞く機会も減りましたが、かつて結核を患っていた人は多くいます。

結核で死去した芸能人・有名人20選

結核とは、結核菌によって引き起こされる感染症です。結核菌は1882年にロベルト・コッホによって発見されました。世界中で流行をしていた病です。特に日本ではかつては不治の病とも言われていました。
肺結核は明治初期までは労咳(ろうがい)と呼ばれていました。主に杯に発症しますが、全身の臓器、器官に感染し、さまざまな症状を引き起こすと言われています。また結核は、世界保健機構(WHO)によると、HIVの次に死者の多い感染症と言われています。

藤間多寿史

藤間多寿史(ふじまたずふみ)さんは舞踊家で、俳優故六代目嵐芳三郎さんの妻でもありました。藤間多寿史さんは1929年、五代目河原崎国太郎の次女として生まれました。藤間多寿史さんは元々芝居への興味が深かったようで幼い頃から芝居の道で活躍をしていました。
藤間多寿史さんと言えば、昔からのファンは「レ・ミゼラブル」のコゼット役を思い出すかもしれませんね。藤間多寿史さんは松山梨絵として前進座のの舞台に立っていました。その頃から藤間多寿史さんのファンだったという人が多いでしょう。
引用:https://www.instagram.com/p/ButEV82DHeB/
藤間多寿史さんは2015年9月15日午前5時54分、非結核性抗酸菌症のために東京都内の病院で死去しました。75歳でした。

宇都宮敏夫

宇都宮敏男(うつのみやとしお)さんは1921年11月20日生まれの電気工学者、通信技術者です。昭和の時代から平成の時代まで活躍をした、時代を代表する学者、技術者と言えるかもしれません。
引用:https://www.instagram.com/p/BmzlvJwA23o/
宇都宮敏男さんは香川県で生まれ、戦時体制中の1943年に半年繰り上げで東京帝国大学第一工学部電気工学科を卒業しました。宇都宮敏男さんは海軍技術士官への内定を得ていましたが、その道を捨てて大学院特別研究生となる道を選びました。
引用:https://www.instagram.com/p/uKBOmPs3Kw/
研究者として活躍していた宇都宮敏男さんは定年退官後、東京理解大学教授を務めるなど、学生への指導に熱心に取り組みました。宇都宮敏男さんは2009年11月26日、肺結核に伴う腎不全で死去しています。88歳でした。

山形勲

山形勲(やまがたいさお)さんは1915年7月25日生まれの俳優です。山形勲さんはイギリスのロンドンに生まれました。出身地としては、東京市麻布区(現在の東京都港区六本木)となっています。
引用:https://www.instagram.com/p/BV7GDbIhLp4/
山形勲さんは少年時代にサーカス団員となり、1917年に帰国するまではヨーロッパ各地で軽業師をしていました。山形勲さんは1935年に日本俳優学校を卒業し、兵役を経て1936年に東宝劇団に入団をしました。
山形勲さんは1942年には劇団文化座を結成し、ここに1953年まで在籍しました。山形勲さんは1949年に「斬られの仙太」に初出演して以降、さまざまな作品に出演しています。山形勲さんは1996年6月28日、肺結核のため死去しました。

アベル・ガンス

アベル・ガンスさんは1889年10月25日生まれのフランスの映画監督です。アベル・ガンスさんは映画監督としての活動以外にも、俳優、脚本家としても活動をしていました。
アベル・ガンスさんはフランスのサイレント映画界における名匠と称されていて、「ヨーロッパのグリフィス」という異名も持っていました。
引用:https://www.instagram.com/p/Brpt8fwDhs4/
アベル・ガンスさんは医者の子供として生まれましたが、学校を中退し弁護士事務所の事務員として働いていました。演劇の魅力に魅了されたアベル・ガンスさんは俳優を志し、19歳の時に初舞台を踏んでいます。アベル・ガンスさんは1981年11月10日、結核のため死去しています。

河島光広

河島光広(かわしまみつひろ)さんは1931年生まれの漫画家です。尾張まこと名義でも活動をしていました。
引用:https://www.instagram.com/p/BRM0fDyDTkq/
河島光広さんは愛知県の尾後家氏の出身で、若くして才能を発揮した将来を期待されていた漫画家でもあります。
引用:https://www.instagram.com/p/BRSbEaCjaZS/
河島光広さんは手塚治虫さんからも絶賛される才能の持ち主でしたが、1961年3月19日に30歳という若さで死去しています。

高村光太郎

高村光太郎(たかむらこうたろう)さんは1883年3月13日生まれの詩人、歌人です。高村光太郎さんは詩人や歌人としての活動以外にも、彫刻家、画家としても活動をしていました。
高村光太郎さんは東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区東上野)の出身で、本名は高村光太郎と同じですが、下の名前の読みがみつたろうとなっています。
高村光太郎さんは日本を代表する彫刻家としても有名ですし、詩人としても多くの作品が教科書に掲載されるなど、日本の文学史上、近現代を代表する詩人とも言われています。1956年4月2日に死去しました。73歳でした。

吉本せい

吉本せい(よしもとせい)さんは1889年12月5日生まれの実業家です。吉本せいさんは吉本興業の創業者であり、芸能プロモーターでもあります。
引用:https://www.instagram.com/p/Bc0z0paDYrC/
吉本せいさんは米穀商の三女として生まれました。吉本せいさんは1910年、20歳の時に結婚しました。吉本せいさんは1912年に第二文芸舘を買収し、寄席の経営を始めました。
吉本せいさんは1913年に吉本興業部を設立、1948年には吉本興業株式会社と改組し、会長に就任しました。吉本せいさんは1950年3月14日に死去しています。60歳でした。

コリンヌ・リュシェール

コリンヌ・リュシェールさんは1921年2月11日生まれのフランスの女優です。コリンヌ・リュシェールさんの本名はRosita Christiane Yvette Luchaireです。
コリンヌ・リュシェールさんはフランスのパリで生まれました。コリンヌ・リュシェールさんの父親は政治家のジャン・リュシェールさん、母親は画家でした。父型の祖父は歴史家で作家をしていたなど、良家の出身でもあります。
コリンヌ・リュシェールさんは1938年の映画「格子なき牢獄」で世界的な注目を浴びいくつかの映画に出演しましたが、元々病弱だったコリンヌ・リュシェールさんは結核を患い、女優活動から離れる事となりました。コリンヌ・リュシェールさんは1950年1月22日、28歳の若さで死去しています。

海野十三

海野十三(うんのじゅうざ/うんのじゅうぞう)さんは1897年12月26日生まれの小説家です。海野十三さんはSF作家、推理作家、漫画家、化学解説家としても知られています。日本SFの始祖の一人とも言われています。
引用:https://www.instagram.com/p/Bn3aAZLlUtx/
海野十三さんの本名は佐野昌一(さのしょういち)です。海野十三さんは徳島市の出身で、小学生の頃に神戸に移住しています。海野十三さんは早稲田大学に進み、電気工学を専攻しました。
大学卒業後はし頃をしながら、機関紙などに短編の探偵小説を発表していました。海野十三さんは1949年5月17日、結核のため死去しています。

織田作之助

織田作之助(おださくのすけ)さんは1913年10月26日生まれの小説家です。織田作之助さんは終戦後に太宰治などと共に無頼派などと呼ばれ、織田作の愛称でファンからは親しまれていました。
織田作之助さんは大阪市南区の出身です。長男として生まれました。織田作之助さんの両親は家族の反対にあっていたため婚姻届を提出できていない状態でした。そのため織田作之助さんは戸籍上は母親の兄の甥という形をとっています。
織田作之助さんは1946年12月に結核により死去しています。33歳でした。織田作之助さんは2008年に未発表原稿が発見され話題となりました。

辻吉郎

辻吉郎(つじきちろう)さんは1892年8月24日生まれの映画監督、脚本家です。辻吉郎さんは映画監督や脚本家としての活動以外にも、俳優として作品に出演する事もありました。
引用:https://www.instagram.com/p/BlSeLpahZ0K/
辻吉郎さんは秋田県の出身で、東京都神田区三崎町(現在の千代田区三崎町)にあった旧制・大成中学校を卒業し、秋田に戻って公務員として働いていました。
引用:https://www.instagram.com/p/BlRhCulh8cj/
辻吉郎さんはその後京都に移住し、日活京都撮影所俳優部に入社しました。辻吉郎さんは当初は「市川芝喜蔵」の名前で活動をしています。数多くのサイレント映画に主sつ円をしました。辻吉郎さんは1946年12月9日に死去しています。

島木健作

島木健作(しまきけんさく)さんは1903年9月7日生まれの小説家です。島木健作さんの本名は朝倉 菊雄(あさくらきくお)です。島木健作さんは高見順さん、中野重治さん、徳永直さん、林房雄さんとともに、転向文学を代表する作家と言われています。
島木健作さんは北海道出身で、2歳の時に父親と死別をしました。その後母親に育てられた島木健作さんは、高校を中退し銀行で働くようになり、家計を支えます。しかし島木健作さんは1925年には透谷帝国大学法学部に入学しています。
島木健作さんは労働組合の活動など積極的に行っていましたが、肺結核に苦しんでもいたようです。しかしその中でも島木健作さんは1927年には普通選挙による県会国会選挙の活動に従事しました。

新美南吉

新美南吉(にいみなんきち)さんは1913年7月30日生まれの児童文学作家です。新美正八さんの本名は新美正八です。新美南吉さんは秋田県の出身で、雑誌「赤い鳥」出身の作者のひとりでもあります。
新美南吉さんは代表作「ごん狐」を持つなど、将来を期待されている作家でした。しかし結核に苦しんで生涯を送り、1943年3月22日に29歳という若さで死去しています。新美南吉さんの作品は死後も高い評価をされました。
新美南吉さんは半田市の名誉市民でもあり、新美南吉さんの出身地である半田には、新美南吉記念館もあります。また新美南吉さんの実家やゆかりの場所をめぐるウォーキングコースもあり、人気を集めています。

立原道造

立原道造(たちはらみちぞう)さんは1914年7月30日生まれの詩人です。立原道造さんは詩人であると同時に建築家としても高く評価されていました。立原道造さんの父親は立原貞次さんで、母親は立原登免さんです。
立原道造さんの学歴としては、東京帝国大学工学部建築学科を卒業していると記録に残っています。亡くなった後の戒名は温恭院紫雲道範清信士という記録も残っています。立原道造さんの墓は東京都谷中の多宝院にあると言われています。
立原道造さんは13歳にして歌集を作るなど、詩人としての才能を発揮していました。立原道造さんは様々な作品を残しています。しかし結核に苦しんでもいたようで、立原道造さんは1939年3月29日、24歳という若さで死去しています。

高村智恵子

高村智恵子さ(たかむらちえこ)さんは1886年5月20日生まれの洋画家、紙絵作家です。高村智恵子さんの夫は彫刻家であり詩人の高村光太郎さんです。高村智恵子さんと言えば、夫が出版した詩集「智恵子抄」で有名です。
引用:https://www.instagram.com/p/BqVAqtulLzt/
高村智恵子さんは福島県安達郡で生まれました。高村智恵子さんが生まれた家は、使用人を何人も抱える資産家だったとも言われています。高村智恵子さんは恵まれた環境で生まれたようですね。
高村智恵子さんは小学校、中学校と順調に学業を修め、日本女子大学校へと進んでいます。その中で高村智恵子さんは油絵に興味を持つようになり、洋画の授業を積極的に受けていたようです。

及川道子

及川道子(おいかわみちこ)さんは1911年10月20日生まれの女優です。及川道及川道子さんは1920年代後半~1930年代前半の日本映画に多く出演し、清楚で近代的なキャラクターが人気でした。「永遠の処女」という呼び名も持っています。
及川道子さんは現在の東京都渋谷区に生まれました。及川道子さんの父親は社会主義運動の経歴も持っていたようです。及川道子さんは当時にしては珍しく両親ともにクリスチャンで、及川道子さんもキリスト教信者であったと言われています。
及川道子さんは1924年に初舞台を経験し、以降様々な作品に出演をしました。中でも評価が高かったのは「青い鳥」での演技だったと言われています。しかし及川道子さんは1938年9月30日、結核のため26歳という若さで死去しています。

中原中也

中原中也(なかはらちゅうや)さんは1907年4月29日生まれの詩人です。中原中也さんは詩人、歌人としての活動だけではなく、翻訳家としても活動をしました。中原中也さんは山口県の出身です。
中原中也さんは代々開業医である名家の長男として生まれました。そのため生誕から医者になる事を期待されて育ちました。中原中也さんは小学校時代は学業成績もよく、神童と言われました。
しかし中原中也さんが8歳の頃、弟が病死してしまいます。その事から文学に目覚めた中原中也さんは、30歳という若さで亡くなるまでに350編以上の詩を残しました。中原中也さんは1937年10月22日に死去しています。

コリン・クライヴ

コリン・クライヴさんはアメリカの俳優です。
コリン・クライヴさんと言えば映画「フランケンシュタインの花嫁」が有名ですね。
コリン・クライヴさんも結核を患っていたと言われています。死去したのは1937年6月25日、38歳でした。

竹久夢二

竹久夢二(たけひさゆめじ)さんは1884年9月16日生まれの画家、詩人です。本名は竹久 茂次郎(たけひさもじろう)です。竹久夢二さんは多くの美人画を残していて、「夢二式美人」という言葉も残っているほどです。
竹久夢二さんは大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」とも言われました。また美人画だけではなく、竹久夢二さんは児童雑誌や詩文の挿絵も積極的に描いていたようです。
竹久夢二さんは分泌の分野でも活躍をしていました。竹久夢二さんの作品は現在でも刊行され、展示される事もあります。竹久夢二さんは1934年9月1日に死去しました。49歳でした。

直木三十五

直木三十五(なおきさんじゅうご)さんは1891年2月12日生まれの小説家です。直木三十五さんは小説家としての活動以外にも、脚本家、映画監督としても活躍をするなど、幅広い才能を発揮していました。
文学賞の直木賞は、直木三十五さんから由来されているものです。直木三十五さんの本名は植村宗一で、東洋史学者の植村清二さんは実弟にあたります。直木三十五さんは父親の反対を得ながらも早稲田大学英文科へと進んでいますが、授業料未納のため中退しています。
直木三十五さんの特徴的なペンネームは、年齢から来ていると言われています。かつては1年ごろに、三十二、三十三などとペンネームを変更していましたが、三十五以降はペンネームの変更はしていなかったようです。直木三十五さんは1934年2月24日に死去しています。43歳でした

まとめ

結核を患っている、患っていた芸能人、有名人を紹介しました。結核に関しては昔の有名人が多くなっています。結核は現在でも存在する病気ですが、風評被害を避けて結核である事を公表しない人も多いです。また医学の発展のおかげで、結核にかかっても日常生活を送りながら治療をする人もいます。